「文部科学省では、STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)に加え、芸術、文化、生活、経済、法律、政治、倫理等を含めた広い範囲でAを定義し、各教科等での学習を実社会での問題発見・解決に生かしていくための教科等横断的な学習を推進しています 。」
文部科学省は、このようにSTEAM教育の「A」を、リベラルアーツの「A」として、広い意味で定義づけしています[i]。
これまで「図工プログラミング」というものを例にしながら、教育現場において広く図工美術の手法を援用していく効果についてお話させていただいてきました。
このことを私が重視するのは、期待される指導者の立場が「教える(Education)」から「引き出す(Learning)」へと変化していっている現状とも深く関わりあうからでした。
「STEAM教育」という言葉は、まだまだ現場ごとにその理解の度合いや解釈については多面的であると感じられるし、理系教育の重視に端を発し広がってきた米英をはじめとした海外と、日本の解釈にも違いがあるように見えます。
そこで今回は、STEAM教育における図工の有効性について、私なりに整理をしてみたいと思います。
私がこれまで述べてきた図工的な性質のことを、ここでは仮に「図工性」とします。
私はこの図工性を、「STEAM」の「A」の中で並列に記されている「芸術」とは明確に区別して考えています。
というのも、私の考えている図工性というのは、文部科学省の文章を参考にすれば、むしろ「STEAM」のあとに記載されている、「実社会での問題発見・解決に生かしていくための教科等横断的な学習を推進」していくという根源的な問いに対し、そのために必要な学習者の態度を真に引き出すために有効であると捉えているからです。
①課題を発見する「図工性」
今の世界は人工物で溢れています。
「おもしろい」と思わせることを目的としてつくられたものを「おもしろい」と感じる体験だけを重ねても、「自分自身の視点」を育むことは難しいかもしれません。
あるいは、「ここがこうおもしろいんだよ」と教えられて見ても、真に「おもしろい」と感じる体験には繋がらない可能性もあります。
未だ見ぬ社会の課題に気づき、研究し、探求し、追求するには、誰も振り向きもしなかったポイントにおもしろみを感じ、興味をもつことが必要です。
私の考える図工美術の学びは、「自分自身の視点」を育むものです。
図工や美術では、作品をつくっている時間でも、友だちと作品について議論している時間でも、自分自身とそれ以外のものが関わりあって、相互に思考が深まっていきます。
活動を通して自分自身の内面を知り、多様なヒトモノコトと影響しあって自分自身の見方や考え方をアップデートしていくと、たとえばなにかを見たときに、自分で自信をもって「おもしろい」と思うことができるようになります。
あるいは、自分だけの「おもしろポイント」を見つけられるようになります。
そしてそのポイントは、人工物のように、強く主張して向かってくる類のものではなく、身の回りにひっそりと佇んでいる場合が多い。
最近は「課題解決の力」という言葉を多く耳にするようになりましたが、私はそれ以上にこの「課題をみつける力」の方がはるかに生きる上で重要だと思います。
子どもたちが、自分自身が感じたことについてゆっくりと向き合って考える機会が減っている今、図工性は課題をみつける力を育むために重要だと考えています。
②発想行為そのものを体験する「図工性」
発想する時にとても大事なことの一つは、「四六時中考えていること」です。
「さあ机に向かって考えましょう」といっても、珠玉のアイディアは降りてこないですよね。
なにか課題があったときに、そのことが常に頭の中にあると、おのずと関連することに意識が向き、その視点で世界を見つめることになります。
たとえば、Phase009でご紹介した早稲田アカデミーのCREATIVE GARDENでは、「ぐるぐる」というあいまいなテーマで身の回りの世界を見つめることで、たくさんの新鮮な発見がありました。
図工美術の授業は、日常生活の中で持続的に考え続けることで、身の回りで起こるすべての出来事や事象からヒントを得られるという、発想行為そのものの体験、あるいは発想できる準備が整った身体になっていく、と言えるかもしれません。
これって、図工美術の領域だけで必要とされることじゃなくて、他の教科も含めた「学び」や「生きる力」そのものの話なのだと思います。
③他者や環境と積極的に繋がっていこうとする「図工性」
これまでの連載でも述べてきたように「図工性」のある学びの中では、子どもは、「知りたい」「つくりたい」という気持ちがどんどん強くなり、そのために積極的に身の回りをよく見たり、人とコミュニケーションをとっていこうとする姿勢が生まれてきたりと「劇的に」変化する場面にたくさん遭遇してきました。
さっきまではあんなにシャイな性格だったのに、気づけばもう、専門家のおじさんに話しかけることに抵抗なんて感じたことありません、みたいな顔になってる。
最初は話しかけるの恥ずかしい、とか思ってたけど、もうそんなことどうでもいいわ、そんなことに構ってられないわって思ってる。
他者や環境と積極的に関わり、深い理解や解釈や興味が醸成されると、その活動を授業の中だけで終わらせず、家に帰ってからも自分でもう一度自主的にやってみる、あるいは「自分の家でやってみたらこう変わったよ」ということをその次の機会に自主的に報告してきてくれることも多くなるような気がします。
教科を横断して実践的に課題解決に取り組むときに、学習者が真に必要を感じながら取り組んでいるか、という姿勢や態度が、教育効果の大きさを左右するポイントになってくるということは、これまでの記事でも申し上げてきました。
美術作品やデザイン作品としての成果物を介した学びだけでなく、視点の獲得などといった、活動の中の思考フローそのものによる学びを援用していくという意味でも、図工性の存在意義はどんどん大きくなっているように思います。
それはひるがえってみると、「芸術」の、現代社会の中の在りかを示しているようにも思えます。
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