3月27日、夢を追う男/プロ冒険家の阿部雅龍さんが亡くなった。
ひょんなことから阿部さんのことを知り、個展の企画を立案して去年の夏に開催させていただき、会期中に計画していたこどもワークショップ開催日前日の夜に倒れた。
それに伴って、11月再チャレンジする予定だった南極チャレンジも行けなくなったから、ついぞ私は「冒険家の阿部雅龍」を見ることはできなかった。
初めてお会いしてからまだ1年、お会いした回数も時間も本当に少ない。
なのに私はいまだに、この訃報に接した自分自身の反応が理解できずにいる。
例えば、この記事を書いているときも、さまざまなメディアから阿部さんについての取材を受けるときも、私の頭の感情とは関係なく、涙が止まらなくなる。
阿部さんは41歳で私のひとつ上で、もしかするとそのような身近さにも起因しているのかとも思ったが、それだけではない気がする。
ふとネットに目をやると、各社がこの訃報について報じている。
阿部さんはこれまで、失敗やトラブルなど、多くのことに南極点到達の達成を阻まれてきた。
そして最後は、病魔に倒れた。
生活を律し、極めてストイックにトレーニングし、努力を重ねてきた上でのこの出来事に、多くのニュース記事が、「夢半ばにして」という言葉を使っている。
これを見て私は、奇遇にも阿部さんに対して、私もこの言葉を投げかけたことがあることを思い出した。
私が阿部さんの個展を企画しようとするよりも前、阿部さんと知り合ったばかりの時にヒアリングをした際、「南極点は、なかなか到達できない大きな目標だけれど、もし到達しちゃったらどうするんですか」と何気なく質問してみたことがある。
それに対し阿部さんはすぐに「寂しいかもしれないですね」と笑いながら言った。
私が、この教育科学館でこの人の展示をやらなくてはいけない、と思い始めたのは、そのあたりからだったと思う。
この言葉に対してそのときの私は、きっと阿部さんは、南極点に到達しても、また次の冒険に出るのだろうと思ったから、「阿部さんは一生、常に夢半ばなのかもしれませんね」と言った。
その後、阿部さんの生い立ちの話、色々な夢を持ってきた話、冒険学校を作りたいと思っている話など、いろんなお話を聞かせてもらう中で、阿部さんの思想のなかに、普遍の「美意識」の存在を感じ、企画展として子どもたちに紹介しなくてはいけないと強く思うようになったのは、これまでもこのブログに記してきた。
そして私は、そんな阿部さんには「夢半ば」という言葉がよく似合うと思ったし、阿部さんからは夢半ば状態を持続したいようにも感じられた。
私はそれまで、たまたま阿部さんが目指していることが「南極点への到達」だったから、肩書きの「プロ冒険家」とは「プロとして南極に行ったりすること」なんだと深く考えもせず思っていたけれど、時間が経つにつれて、それは私の大きな誤解であることに気づいていった。
今思うと、「プロ冒険家」とは、阿部さんにとっての「この世を生きる人」ということそのもののメタファーであり、「この世を生きること」とは、「夢を叶えること」ではなく「夢を探し夢を追うこと」だと、阿部さんは考えていたように思う。
阿部さんが企画展のためのインタビューで繰り返し語っていた、「生きることは冒険」という言葉の真意が少しずつ分かっていった気がするし、多様な人々が周りに集まり、支えられ、独自の「美意識」を大事にしながら社会の中で生き生きと生きる阿部さんを見て、私はこのことは一つの真理の形なのだろう、と直感的に思う。
彼は、秋田に生を受け、漫画雑誌を読んでその純真無垢なヒーロー達に父性を重ねた。
彼は、いじめを受けたり、大学受験に失敗したり、多くの困難があった。
彼は、最初から冒険家を志していたわけではなかった。
何より彼は、繊細で、弱いところもあって、最初から特別な人なんかじゃなかった。
彼の冒険はとうの昔に始まっていたし、南極チャレンジをはじめとした冒険は、彼の真の冒険の一部に過ぎなかったのかもしれない。
この真の冒険は、決して阿部さんだけの特別な話ではなく、この世の人間すべてがチャレンジしている冒険とも言える。
そう考えた時、私は彼のことを、いつのまにか、同志と捉えていたのかもしれないと思った。
私は彼に、どこか自分を重ねていたのかもしれない。
そして同時に、私のヒーローであったのかもしれない。
たった1年のご縁だったのに、私も、彼の周りに集った人々同様に、いつの間にか彼が私の中に存在するようになっていたのだろう。
南極の氷の大地から最初に海に飛び込んでいくペンギンのことをファーストペンギンというらしい。
でもその場面をよくみてみると、ファーストペンギンになろうとするペンギンは同時に何羽もいて、飛び込もうかどうか、しばらくの時間を氷の海岸線でうろうろしていたりする。
その中には、自分から強い意志で飛び込んでいそうなものもいれば、迷っているうちに体勢を崩して結果的にファーストペンギンになっちゃったようにみえるものもある。
大事なのは、自分が一番になることだけではなくて、その後には、無数の仲間達が続いていくことにあると私は思う。
彼は、その短い生涯の中で真の冒険の存在に気づき、多くの人々に対して言葉ではなく体験として、「生きる」や「幸福」や「自分と他者」といった真の冒険に必要不可欠な装備について考えるきっかけをくれた。
私たちはそれらを受け取り、影響され、また逆に彼に影響を返したりしながら関わり合い、新しい展開を生み出していた。
そう考えてみると、真の冒険とは、人から人へと受け継がれ、終わりがないものなのだろう。
一人の真の冒険は、他者に影響を与え、受け継がれ、新しい真の冒険を生んでゆく。
それはどこか、血のつながりがないところでも起こる、遺伝のようなもの。
彼はいろんな誰かから冒険を受け継ぎ、劇的に冒険を生き、多くの人々に冒険を引き継いだ。
終わりのない冒険に真摯に向き合った彼にはやはり、「夢半ば」という言葉がよく似合う。
最後に、阿部さんは企画展の準備中に、さまざまな厳しいトレーニングを私に見せてくれた。
私もそれに密着し、一緒にトレーニングさせていただいたりもした。
しかしその場の雰囲気から私は、辛い空気を一度も感じたことがない。
それは、先に書いた「生活を律し、極めてストイックにトレーニングし、努力を重ねてきた」ということの一切が、阿部さんが心底やりたくてやっている、ということを示しているように思う。
私には、南極点到達だけが夢であって、準備期間であった当時の「今」が、未来の夢のための犠牲にしているようには全く見えなかった。
むしろ、トレーニング中の阿部さんは、夢の中にいるように見えた。
常に夢半ば。
だから阿部さんはきっと、たとえどんなにおじいちゃんになってから亡くなろうが、「夢半ば」と報道されたに違いない。
いつかいただいた阿部さんからのお手紙に、ついに返信ができなかったので、この場を借りてお返事を書かせていただきました。
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