開幕編はこちらから 金ヶ崎芸術大学校 第二十一回 「城内農民芸術祭2024」開幕編
まちへの広がり
10月19日に始まった「城内農民芸術祭2024」。短い秋はあっという間に過ぎ去り、季節は冬へ。今年の農民芸術祭は、これまで以上に多くの近隣住民のご協力のもと、複数の拠点をつないで開催することができた。
初日の開幕行事で佐竹松濤さんによって揮毫された「大地麗」の書は、茅葺きの片平丁・旧大沼家侍住宅の座敷で展示。床の間には「城内農民芸術祭2023」のメインビジュアルとなった版画も軸装して掲げた。和洋食道エクリュの床の間を飾る城山萌々さんの作品とあわせて「床の間版画展」を構成する。ちなみに、大学校が拠点とする旧菅原家(旧狩野家)侍住宅でも、「城内農民芸術祭2022」の版画を展示していた。
さらにもう一点、旧大沼家侍住宅の土間では、民具などが置かれた棚にもさりげなく作品をひそませた。こちらは、今回の「城内農民芸術祭」に初参加となる切貼民話師のゆーだいさんによる平面作品である。「切貼民話」とは、既存の民話をベースとしながら、その土地で撮影した写真をコラージュしつつ、新しい民話を創作するアプローチである。そこでつくられる不思議なイメージは「コラー獣」と呼ばれる。筆者が取り組む「妖怪採集」とつながる部分もあり、今年度、複数の地域で協働プロジェクトに取り組んできた。
金ケ崎でも、夏休みに開催された「小学生ウィーク」にて素材となる写真の撮影やコラー獣づくりのワークショップを実施した。また、岩手県内には『遠野物語』で知られる遠野市や、鬼にゆかりの深い北上市などもあるため、作品にはそれらの地域でのフィールドワークの成果も反映されている。
ゆーだいさんの作品は、「かいゆー型切貼民話展」と称して町内各所に点在させた。占部史人さんのワークショップでおなじみの「かみしもお休み処」や、駅前通りにある喫茶店「りぼん館」など、まちをそぞろ歩きながら「コラー獣」を発見するような仕組みである。両会場には「城内農民芸術祭」のインフォメーションセンターとしての役割もお願いした。
さらに、これらの会場をつなぐスタンプラリーも開催し、5か所以上を訪れると和洋食道エクリュにてコーヒーフロートまたはコーラフロートをサービスというありがたいご協賛もいただいた。一連の取り組みを通して、大学校という点からまちへと、確実にその輪が広がっていっていることを実感する。
(ゆーだいさんnote城内農民芸術祭出展&ワークショップレポートも併せてご覧ください:編集部)
改めて「農民芸術」を問う
ちなみに、ゆーだいさんは学校教員や保育士など、子どもの学びに関わる仕事に携わってきた。大学などで美術に関する専門的な教育を受けてきたわけではなく、今回の「城内農民芸術祭」もほぼ初めての展示の機会となる。その意味において、経験値という側面から見れば、いわゆる「芸術祭」にアーティストとして出展することは少ないのかもしれない。
ただし、これまでも記してきたように「城内農民芸術祭」はアーティストの作品を展示することだけを主目的に据えたプロジェクトではない。生活そのものを芸術として実践するための実験場である。宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』に記された「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」というフレーズに照らし合わせるならば、そこではあらゆるものがその対象となり得る。
例えば、和洋食道エクリュでの地元食材を使った料理、かみしもお休み処で季節ごとに期間限定で提供される郷土料理のずるびき、りぼん館でおいしくいただくクリームソーダやココアなど、これらは既に「農民芸術」の範疇に含まれるのかもしれない(よしとするか否かは別として)。
あるいは、今年は大学校の裏にある土合丁・旧大沼家侍住宅で約20年ぶりに茅の葺き替えが行われていた。これもまた、言わずもがな本質的な意味での「農民芸術」と言えよう。「城内農民芸術祭」と並行して茅葺き屋根が再生していく様子は、それ自体がまさにワーク・イン・プログレスであった。
ここに挙げたそれぞれの場面には、「生活」と「芸術」とを取り持つ様々な関係性を見出すことができる。「生活のためにものをつくること」「生活するための場をつくること」「生活そのものを彩ること」……おそらく動機は様々だが、その根底には表現することに対する衝動のようなものが作用しているのではないだろうか。
こうした創造的衝動を、造形を通して可視化する人もいれば、料理を通して表現する人もいる。そして、今まさに「わたくし」がそうしているように、文章を通して発現することもできる。ここでもまた「個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ」という宮沢賢治の言葉が心の中で鳴り響く。
芸術祭と市民芸術祭のはざまで
こうした文脈において、「城内農民芸術祭」という(アート)プロジェクトそのものが、実は「農民芸術」の理念を実践的に探究するための表現に他ならない。とは言え、振り返ってみれば、今年はこれまでになく「芸術祭」の方面に重心が置かれていたようにも思われる。池宮中夫さんをゲストにお迎えしての開幕行事は、村山修二郎さんの作品も相まって、まさに祝祭的な空間を生み出していた。
では、そもそも「農民芸術祭」と「芸術祭」とを分かつ視点はどこにあり得るのだろうか。とある夜、出展作家の占部史人さんとこのトピックについて語り合う機会があった。そこでは、もとより「城内農民芸術祭」は既存の「芸術祭」のセオリーを踏襲していないことが議論の出発点となった。
ここでのセオリーとは、ディレクターないしはキュレーターが参加作家を選出し、その作品(有形・無形は問わない)の集合体として芸術祭が構成されるというシステムである。これは、従来の展覧会の枠組みを比較的忠実に再現したものとなる。それゆえに、アーティストにとっては誰と一緒に出展するかというラインナップが重要となり、その観点での批評がなされることもある。
一方で、「城内農民芸術祭」の場合、その出発点となるのは金ケ崎という地域であり、そこでの生活である。これは、母体となる「金ケ崎芸術大学校」が一軒の古民家を拠点としていることとも不可分の関係にある。そこでは、非日常的なイベントとして上から「芸術(祭)」を持ち込むのではなく、日常生活を拡張する中で「農民芸術祭」という時間が浮かび上がってくるような状況を目指している。
とは言え、いわゆる「市民芸術祭」とも異なるものである、と筆者は考える。なお、ここでの「市民芸術祭」は、主に行政主導のもとに市民(住民)の作品を展示・発表するような事業を想定している。そこでは(場合によっては審査がなされることもあるが)ディレクションやキュレーションがなされることはほとんどなく、平等性の観点から横並びで展示や発表のための枠組みを設えることに主眼が置かれる。
「農民芸術祭」は、この「市民芸術祭」と「芸術祭」との間をさまよいながら形作られていくものであると考えられるが、まだ言語化が難しい、ということがひとまずの結論となった。
新春準備祭
足掛け3か月にわたる「城内農民芸術祭2024」もいよいよ閉幕。12月7日には、城内自治会の皆さんが表小路の木々の幹に沿って竹を立て、周囲に縄を張り、雪吊りを施していた。これらは積雪から木を守る機能を担っているわけだが、それ自体が冬の造形として通りにリズムをもたらしている。おそらくこれもまた本質的な意味での「農民芸術」の一種である。
ちょうどこの日の夜から雪も降り始め、翌朝には庭園も冬景色に模様替え。白い世界の中で色彩が際立つことで、村山さんの作品もまた違った魅力を醸し出す。農民芸術祭の最終日となるこの日は、「図工の時間」の拡大版として、新年に向けたプログラムを同時多発的に開催した。
まずは、開幕行事に引き続き松濤書道研究所の佐竹松濤さんによる書道パフォーマンスから。「歳末書き納め大会」ということで、某恒例行事に倣い、独断のもとに今年の漢字をひと足早く披露。2024年は元日の自然災害に始まり、多くの困難なできごとが重なったことから「難」が選ばれた。ちなみに本家の方では金ケ崎の「金」が選ばれたようである。
こうして「新春準備祭」のスタート。出展作家の城山萌々さんは、ポスターと同様に紙版画(実物版画)の技法を用いて年賀状を刷るワークショップ。ゆーだいさんは、十二支になぞらえて準備した素材写真を組み合わせてコラー獣をつくる新しいワークショップを開発。折り紙同好会の及川和善さんはこたつを囲み折り紙で縁起物をつくるブースをご担当。参加者として遊びに来たはずのワカツキモケイの若月匠さんも、早々と子どもたちに見つかり、「ジオラマをつくりたい」という要望に応えていつの間にかワークショップをする側に。
来場者は、それぞれの興味の赴くままに、版をつくったり、ローラーでインクをのばしたり、葉書をバレンで刷ったり、コラージュ用の素材を吟味したり、試しに切り貼りしてみたり、コラー獣の名前を考えたり、書道を練習したり、したためる文字を検討したり、難しい折り紙に挑戦したり、ジオラマをつくったり、プラモデルをつくったり、駄菓子を買ったり、会話を楽しんだり、阿部穂香さんの展示を見たり……にぎわいの中でそれぞれの時間を過ごしていた。
▲版画で年賀状づくりに挑戦
▲十二支コラー獣の素材と活動風景 十二支コラー獣「金長寿五豊心身運上昇龍」
▲書道の練習 来年の干支をかく様子 折り紙同好会
午後には、展示の撤収も兼ねて出展作家の阿部さんもはるばる東京からご到着。参加者として「新春準備祭」を存分に楽しんでいた。版画で年賀状づくりに取り組んでいると、波ダンボールで山並みを表現していた様子を観察していた小学生がいた。「同じようにやってみたい」ということで、版づくりに挑戦。異なる活動を同じ場所で共有しているからこそ生まれる創造的な対話の一端が垣間見えた。
このように、「新春準備祭」の現場では、それぞれの活動を牽引する先達者はいるものの、参加者との関係性は常に流動的である。出展作家と参加者、鑑賞者などの役割の区別も大きな意味をなさない。さらに、そこで生み出されるものは、それが作品であるか否かにかかわらず、その一つひとつが紛れもなくその人の表現になっていた。ここに「農民芸術祭」という曖昧な現象を読み解くヒントがあるのかもしれない。
お問い合わせ先
金ケ崎芸術大学校
〒029-4503 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根表小路9-2
電話:080-7225-1926(担当:市川)
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